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家族のこと - 2010年9月の記事
09/19(日) 20:51
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天国の兄さんへ

by ばばの日記

徳之島じじとばばのブログ



9月19日(日)



今日は大好きだった兄の、命日だ。



まさか49歳の若さで兄が天国に召されるなんて・・・



忘れもしない、昭和63年9月16日。



ばばは、道徳の授業をしていた。



たまたま「たった一つの命」「かけがえのない命の尊さ」について



子ども達に話していた時電話を取り次がれた。



普通は授業中に電話を取り次がれることなんて無い。



異様な胸騒ぎを憶え電話のある部屋へ走った。



電話の内容に、ばばは失神しそうだった。



鹿児島にいる兄が出勤前に倒れ救急車で運ばれたという。



すぐに、休暇届を出し姉と一緒に飛行機で鹿児島へ飛んだ。



病院へ直行したが、すでに兄の意識はなく気管切開をされていた。



それから3日後、みんなの願いむなしく兄は49歳で天国へ旅立った。






ばばと10歳違いだった兄。



女姉3人の中に男の子は兄一人。



我が家の「希望の星」だった兄。



努力家で、温厚で、いつでも家族のことを考えてくれていた。





貧しかった時代、兄は家族の期待を背負って大学へ進み念願の高校国語教師になった。



兄がK高校へ赴任した年、ばばは高校受験だったが



両親の「K高校へ行って、兄さんの炊事の世話をしながら高校へ行けば親も安心する。」



という一言で志望校を受験2ヶ月前に変更、予想だにしなかったK高校生になったばば。



中学三年生まで、ズボラで、ぐうたらで、



(いかにして家の手伝いをサボろうか)ということばかり考えていたばばが



入学直後から兄の身の回りの世話をし、食事の準備をし・・・・・



まるで高校生兼一主婦として奮闘の日々が始まった。



少しでも安く買い物をするために隣の集落まで歩いて往復した。



当時、初めてカッパえびせんが発売されたような気がする・・・



お風呂も隣の集落の銭湯まで行っていた。



そんな生活の中で、学校へ行けば、ばばは兄のことを「N先生」と呼ばなければならなかった。



極力兄と接近しないように校内を歩いた。



たまに廊下などですれ違うと兄はにこっと笑って、すぐに顔をそらして通り過ぎた。



兄は現代国語と古典を担当していたが、ばばの学年には古典を教えていた。



ある日、兄がばばに言った。



「古典のテストで、お前が悪い点数をとると、兄さんは恥ずかしい。



かと言って、満点とると問題を教えたと友達から思われるかもしれない。



だから、なるべく良い点数をとって、その点数をキープしなさい。」と。



ばばは国語は大好きで。将来中学校の国語教師になりたいと思っていたので



なるべく兄の期待に添えるように頑張った。



兄妹で、同じ学校で、兄は教師、妹は学生・・・・何とも妙な気持ちになることもあった。



ただ、「兄に迷惑をかけるような言動はいっさいしないぞ」と固く心に誓っていた。



k高校は島内唯一の高校で学生のほとんどが島内の中学校から来ていた。



ばば一人が徳之島からの入学だった。



先生の妹だから・・・・余所からたった一人で来ているから・・・・・でもなかっただろうが、



同級生・先輩・先生方からも、とても良くしてもらった。



入学後しばらくは、夕方になると徳之島の両親が恋しくていつも泣いていた。



兄はいつも帰るのが遅かったので、夕食の準備をし、一人で宿題をしながら兄を待った。



そんな時、センチメンタルになって泣きべそかいていた・・・・



高校生になっても、幼かったんだね、ばばって。







そんなばばが何時も思うことがあった。



(兄さんはいつ寝ているんだろうか??)と。



二部屋しかない町営住宅で住んでいたが、ふすまで仕切られた兄の部屋は



夜、ばばが何時に目を覚ましてもいつでも明かりが点いていて



机に見かっている兄の後ろ姿が見えた。







ばばは青春まっただ中。



食べれば食べるだけ体は風船のように丸々太っていった。反対に兄は・・・・・・



兄の同僚の先生方に「おい、○子、自分だけ美味しいの食べて



お兄さんに美味しい食事作ってるか?」と良くからかわれた。



今から思うと、兄に本当に申し訳なかったと思う。



栄養的な知識もなく、ただ自分が好きな物を作っていたような気がする。



そんな妹が作った弁当を3年間食べ続けた兄。



文句一つ言われたことはないけれど、もう少し料理がうまくできていたら・・・・



「美味しいっ!」って舌鼓うってもらえる料理が作れていたら・・・・・



ごめんね・・・・兄さん。





今思うと、切なくも楽しい高校3年間だった。





大学受験を控えた時、ばばは中学校の国語教師になるために学べる公立の短大と4年制大学を選んだ。



担任の先生も勧めてくれた。



しかし、兄は「お前の今の実力では希望している国公立はダメだ。」と・・・・・



兄の言うことはいつでも正しいと信じていたばばは、日本全国の短大、4年制大から



1,中学校の国語免許がもらえる。



2,学費が安い。



この二つの条件に当てはまる学校を選び出した。



4年生大は県外、短大は県内で各一校ずつ選んだ。



4年制大学に行くか、短大に行くかで随分迷ったが、



当時就職率ほぼ100%だった短大に自分で決めた。



そして、高校3年間学費を出してくれた兄と、



「先生ほど良い仕事はない」と呪文のように言い聞かされた両親への恩返しのためにも



一生懸命勉強して大学に合格し、教師になるんだと強い気持ちで受験し、合格した。





ばばは、最初の第一希望だった公立大学に未練はあったけれど



母が教えてくれ、ずっと座右の銘の一つとしてきた「鶏口なるも牛後なるなかれ」で



鶏口になるべく頑張るのも、又一つの道かな?と思い公立大学は諦めた。





選択は間違っていなかったと思う。



ばばは、その後自分の夢を実現させ、両親の元へ帰った。



そして、ある程度親孝行もできたと思っている。





兄は・・・ばばが高校を卒業し、2年後に結婚した。



そして奄美市への高校へ転勤。



その後、鹿児島へ転勤となり二つ高校で勤め、4月から県立図書館勤務となった。



地方奉仕課という部署で、これからはたくさんのおじいちゃんや、



おばあちゃんの為にも頑張るとばばに話した。



貧しい生活の中から兄を大学まで行かせてくれた島の両親へ思いを胸に、



地方のたくさんの方々のために勤めようと張り切っていた矢先・・・・・



新しい職場に移って半年しか経っていなかった9月。



当時は9月15日が「敬老の日」だったが、



倒れる前日には故郷の敬老の方々へ、兄は祝電を打ってあった。



敬老の日の翌日倒れ、3日後に帰らぬ人となった兄。



「これからが、親への恩返しの時」と語っていた兄。



徳之島の高校へ異動し、両親を喜ばせたかったであろう兄。



49歳って、若すぎる。



まだまだ、やりたかったことは、たくさん、たくさんあったはず。



無念でたまらなかっただろね、兄さん。





兄が無くなった時、19歳だった一人娘は、結婚し今では中学生と小学生の



女の子ふたりのお母さんになっている。



兄さんは、一人娘の結婚式の晴れ姿も可愛い孫も見ることができなかった。



無念だっただろうね。







今日は、兄にとって孫Mちゃんの運動会。



奇しくも、兄の命日。



義姉は先日から、孫の応援に行っている。



兄は目を細めてMちゃんの頑張りを天国から応援していることだろう。





兄さんが旅立ってから、23年。



兄さんの家族も、ばばの家族も、みんな頑張っているよ〜〜〜。







今朝、両親の仏壇の水を替えながら、ばばは祈ったよ。



お兄さん、お父さんやお母さんと一緒に、



これからも、ずぅっとずっと、天国からみんなを見守っていてね・・・って。

徳之島じじとばばのブログ  主管理者 ibuchanじじ&ばば

ご縁・・・・それぞれの新しいスタート

by ばばの日記

徳之島じじとばばのブログ



9月2日(木)晴



昨日、9月1日は新しい出発の日だった。



入院中の義父が90歳の誕生日を迎えた。



働き者でじぃっとしていることが嫌いだった義父。



ベッドに寝たっきりの生活は不本意きわまりないと思うが



去年11月、胃漏の手術をしてから寝たっきりになってしまった。



寝ていることが多いが、毎日語りかける家族の声はきっと届いていると信じている。



寝たっきりでも良い。



義父がいてくれるだけで私たち家族は幸せです。



誕生日を迎え、90代の日々の始まり・・・・・・・



ずっとずっと長生きしてね、お義父さん。






6月11日、突然体調を崩し、そのまま入院してしまった、お義母さん。



義父と同じ病院で3ヶ月の療養生活を送っていたが、



奇しくも義父の誕生日に介護施設へ移ることになった。



色々逡巡したが、今はじじとばばふたりともスッキリした気持ちだ。



母の施設での生活がスタート・・・これも新しい出発だ。





今回、介護施設への入所に際して「人の縁」というものを改めて感じた。





母が入院した当初は元気に退院できるものと信じて疑わなかった。



しかし、左手と左足に麻痺が残ってしまった。



約2ヶ月近くのリハビリで左手はだいぶ力もついたが



左足はなかなか思うように動かせず・・・車椅子も自分で動かせる状態ではない。



これ以上リハビリを続けても、大きな進歩はないということと



リハビリ療養入院は3ヶ月以上は難しいということもあり、施設のお世話になることを決めた。





今から数週間前だろうか?



たまたま行き付けのスーパーで、ばばが母校での勤務中お世話になったKちゃんと出会い



偶然母の話をばばがした。



Kちゃんは、現在老人介護施設で働いている。



そして「いつか義母がお世話になるかも知れないので、その時はよろしくね〜」と



冗談ぽく話して別れた。



当時は、まだ義母の入院生活はまだまだ続くものと思っていたのだ。





義母の入院生活ももうすぐ3ヶ月になろうという先月25日の朝



ばばが約40年前に関わった教え子Rちゃんから電話が入った。



「Kちゃんが働いている施設に一つ空きがある」と連絡があり、



Rちゃんから、ばばに連絡をしてくれるよう頼まれたというのだ。



Kちゃんは、ばばの連絡先分からないもんねぇ。。。





いつかは決断しなくてはいけないことだったが、義母を施設に入れることには



どうしても抵抗があり、ばばは踏ん切りが付かないでいた。



その時,帰省中だった長女が「お母さん、今が決断の時じゃない?



私も一緒について行くから、まず施設を見たり、説明だけでも聞いて来ようよ」と行った。



早速じじとばば、そして長女で施設を見に行った。



まず、玄関を入ると顔見知りの女の方が「私、こちらに転勤になったのよ〜〜」とニコニコ話しかけてきた。



義父がデイケアに通っていた時お世話になっていた方で、ばばと公民館口座で一緒に学んだ方だった。



さらに施設の中に入って、事務長さんや相談員さんと話したが



女の方の方が義父やじじを知っている方だった。



さらに途中、お茶を持って入室された方は、なんとじじの教え子のお母さん。



お話を聞いたあと廊下を歩いていると、30数年前のばばの教え子のお姉さんともバッタリ。



今は、この施設で働いていると言う。



約1時間、説明を受け、相談をし、部屋を見せていただくうちに



じじとばばの気持ちもだんだん固まってきた。



環境も良さそうだし、職員さんも親切で知っている方々がたくさん働いておられるということで



とても心強く感じられたのだ。



さらに、園長さんもばばが顔見知りで昔から知っている方だった。





この日はKちゃんとは会えなかったが、ばばの中学校時代の同級生、Hちゃんもここで働いている。



このHちゃんとも数週間前病院の待合室でバッタリ会い、この施設のことを聞いたり



「いつか義母がお世話になるかも知れないけれど、その時はよろしくね」と話して別れたのだった。





それから1週間後の9月1日。



、義母は病院から直接施設の方へ退院することに。



病院を出る時は顔見知りのおばちゃん達と手を握りあって泣いていた義母。



折しもスコールのような雨が降り出した。



義母の涙雨のようにも思え、ばばは切なかった。



ところが、施設へ近づくにつれ雲の切れ間から青空も見えだした。





部屋へ入り、ベッドに座った義母は、どこか不安気だったが時間がお昼前だったので



すぐ食堂に連れて行かれた。



じじは事務長さんと話したりしていたが、ばばより先に帰ると言う。



ばばと姉は、やはり母が食事から帰ってくるまでは待っていて様子を見ようと残った。



食堂へ行き、離れた所から見ていると、母はとても美味しそうに食事をしていて、ばばと姉はホッ。



約30分後、母はニコニコ戻ってきて「ご馳走がいっぱい出たので、みんな食べたよ。



病院の食事と同じくらい美味しかったよ」と報告してくれた。



ひとまずは、安心だ。。。。。。。。



しばらく雑談した後、義母が「じじの食事を作ってあげるんでしょ。



私は大丈夫だから、もう帰りなさい」と言ってくれたので



昼から又来ることを約束して一旦帰宅した。





夕方、再び行ってみると、母はもう夕食を終え部屋に戻っていた。



とても穏やかな顔をしている。



良かったぁ〜〜。



孫のことや曾孫のこと、近日中にテレビを設置してあげることなど話すと



母はニコニコと聞いていた。





一夜明けて、じじも母のことが気になるのか10時頃面会に行った。



帰って来たじじによると、母はとても穏やかだったと聞き、ばばは又安堵した。





昼2時頃、ばばと姉も面会に行った。



義母はお風呂に入れてもらい、さっぱりした表情で食堂のテレビの前に座っていた。



母がテレビの前に座るなんて、何十日ぶりだろう????



その顔もとても穏やかで、入院する前の優しい義母の顔だった。





施設へ入れるということについて、ばばは抵抗があり、義母の入院来、ずぅっと逡巡もしたが



思い切って良かった!とつくづく思え、久しぶりに気分もスッキリした。





施設に空きが出たことを、いち早く情報提供してくれたKちゃん・Rちゃん。



素早く病院と連絡を取り、入所手続きをして下さった施設の方々、



そして、お世話になっている・・これからもお世話になる施設の職員の方々、



じじとばばの背中を押してくれた長女。。。。。。。。。





たくさんの方々との「ご縁」が今回の義母の施設入所を可能にしてくれた。



ありがたいと思う。





人間、何時誰のお世話になるか知れない。



だから、何時も誠意を持って人と接しなければいけないと常々思っているが



今回特に「ご縁」ということを強く感じた。





これからも多くの方々と「良いご縁」を結び続けていきたいと思う。

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