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<< ばばの日記 - 2012年10月の記事
10/05(金) 21:11
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10/04(木) 16:44
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10/03(水) 20:37
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10/02(火) 16:41
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10/01(月) 15:31
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>>ばばの日記の記事一覧

「コーレ」と「カメー」、他

by ばばの日記

徳之島じじとばばのブログ


10月5日(金)晴れ

夕べ、じじが「○○のターシっていう言い方、

僕たちは言ったことないな。ばばと結婚して初めて聞いた」と言った。

「ターシ」という言葉は方言で、ばばの実家集落では、

ごく普通に使っていた。

例えば「これは、じじのターシ」と言えば

「これは、じじの分け前(取り分)」というような意味になる。

又、「ホー」という方言も「取り分・分け前」という意味で使う。

「これは、あなたのホー」と言えば

「これは、あなたの分け前(取り分)」という意味である。

同じ徳之島でも、集落によって方言は違う。

だから、じじと結婚したばかりの頃は絶対方言は話さなかった。

何だか恥ずかしいような気がして・・・・・・

それが、ウン十年も経てば、実家集落の方言丸出しで

じじと会話することもある。



方言と言えば・・・・・

結婚した当初・・・と言っても結婚後すぐの4年間は

加計呂麻で生活したので、じじ両親と生活した時間はあまりない。

結婚5年後から、両親宅のすぐ隣で生活するようになった。

義母は、料理上手で、色々な料理を作っては

「ばばちゃん、これ、カメー(メは表記できないマとメの中間の音?)」

と、色々な料理を勧めてくれたが

ばばは、最初のうちとても違和感を感じていた。

「カメー」とは「食べなさい」という意味だが、

ばばの実家集落では「コーレ」と言い、「カメー」より丁寧な言い方をするのだ。

だから、義母の言う「カメー」がとても乱暴な言い方に聞こえ、

違和感を感じていて、なかなか慣れることが出来なかった。

じじ達は普通に「食べなさい」を「カメー」と言っていたんだって。

義母は、珍しい物や美味しい物があると子供や孫達に食べさせたくて

「これ、カメー」「これも、カメー」と勧めるので、我が家の三姉妹は

「ばあちゃんの、カメ、カメ攻撃が始まった〜」と言っていた。

美味しい物を自分は食べずに子供や、嫁や孫に食べさせようとする

優しかった義母。

介護施設にお世話になっている今も、たまにお菓子等を持ってくと

「ばばちゃん、食べなさい」って言うのよ。

「親思う心に勝る親心」。

いつまでも、親は親だね。

お母さん、ありがとう〜。



そう、そう、今日はいつも通う魚屋さんから綺麗な落陽が見えたよ〜。

大きなオレンジ色で、真ん丸で・・・・カメラ持っていれば良かったって後悔したよ。

「秋の陽は、つるべ落とし」と言われるように、

数分後には山の向こうに隠れてしまった。

残念!



目を転じて、お店の前を見るとセンダンの木に大きな黒い鳥が止まっていた。

「サシバ」かなぁ・・・・・

ばばは、1年以上、夕方の散歩に行っていないので

サシバやミサゴと出会うことも滅多に無い。

だから今日は久しぶりに「サシバ」と出会えて嬉しかったよ。



刺身を買って、車に乗ろうとしたとき目の前の桃の木に目が留まった。

アラッ!薄いピンクの何かが見えたような・・・・・

落ち着いてゆっくり見ると、何と、桃の花がもう咲いてたよ。

「桃の花って、今頃咲くんだったっけ?」と姉に聞くと

姉も「さぁ〜」と首をひねっていた。

そこで、童謡「春よ来い」を口ずさんでみた。

「♪春よ来い、早く来い。お家の前の桃の木の

蕾もみんな膨らんで はよ咲きたいと待っている♪」

・・・と言うことは?桃の花は春に開花するんだよねぇ・・・・

今は、まだ秋・・・・・

秋なのに〜、秋なのに〜・・・・・・

数日前の強烈な台風に吹きさらされても落花せず、耐え抜いたんだね、

凄いぞ!桃の花!

これからしばらく、季節外れの桃の花を、観察し続けてみよう〜っと。

徳之島じじとばばのブログ  主管理者 ibuchanじじ&ばば

貴重な、貴重な・・・・

by ばばの日記

徳之島じじとばばのブログ


10月4日(木)晴れ

先日に続き、ばばが子供の頃家で飼っていた動物?。

鶏・・・・・・小さな小屋を作り2,3羽の鶏を飼っていた。

何の為に?

鶏が産んでくれる卵・・・・貴重な貴重なタンパク源だった。



鶏の餌をあげるのはばばの仕事。

セイヨウタンポポや野菜屑を小さく刻んで米ぬかと混ぜてあげたり

時には水を入れ替えてあげたり、サボりマン=怠け者のばばも

鶏の世話は良くしたと思う。



ある時、鶏の産んだ卵に異常が!

外側の固い殻が無く、黄身と白身が

薄皮に包まれたような状態の卵が産まれるようになったのだ。

ばばは、何が何だか訳が分からなかったけれど

父か母が言った。

「浜(海)に行って貝殻をたくさん拾ってきて、

それを粉々に叩きつぶして鶏にあげなさい」と。

きっと、鶏に与える餌にカルシウム分が不足していたんだろうね。

言われた通り、ばばは篭を背負って海へ行った。



当時、花徳の海岸は綺麗な白砂の浜が遠くまで続き

その白砂より更に白い貝殻がずぅっと帯状に連なっていた。

だから、貝殻を集めるのはとても簡単だった。

しゃがんで両手で貝殻を掃き寄せることを数回すれば

ほぼ篭一杯の貝殻はすぐに集められた。



家に帰って、集めて来た貝殻を石で細かく粉状になるまで叩きつぶして

他の餌と一緒に鶏に与えた。

すると、アラッ、不思議!

2,3日後には固い殻の立派な卵を産むようになったのだ。



今でこそ、卵はスーパーの目玉商品として1パック98円とかで買えるが

ばばが子供の頃、それはそれは貴重だった。

家庭訪問で訪れる先生に、新聞紙で卵をくるんでお土産に持たせたりしていた。

当時、先生はとても尊敬されていたからね。

この頃、母はばばに「大きくなったら学校の先生になりなさい。

そうすれば、みんなから尊敬されるし、卵もいただけるんだよ」と

呪文のように、ずぅっと言い聞かせていた。

母の呪文が効いたのか?貴重な卵が欲しかったのか?

ばばは、母の言う通りの道を選んだ。

だから、学校へ上がる前の母の一言が

ばばの将来をも決めてしまったと言っても過言では無い。



さて、鶏当番のばばは、鶏が卵を産む素振りをしたときは

ずぅっと鶏小屋の前にしゃがみ込んで

卵を産み落とすまで観察していたよ。

鶏のお尻の方からポトンと卵が産み落とされるのが

物珍しくて嬉しくて・・・・・・・

産み落としたばかりの鶏の卵を何回も採ったよ。

生暖かくて、何だか不思議な気がしたけどね。

でも、産みたての卵をばばがサッと取るものだから、

時には鶏につつかれたこともあるけど、つつかれる痛さより

産みたての卵を採る喜びの方が大きかった。



卵は何個か溜めておいて、かき玉汁のようなお汁に入れてくれた。

当時、従兄弟3名も我が家で暮らしていたので

我が家は10人家族だったけど、10人で数個の卵の入ったお汁を食べていたんだね。

切ないね・・・・・・・・・・・



じじも、卵がいかに貴重だったかは何回もしてくれる。

じじが子供の頃、義父は教員だった。

当時、教員の給料は安くて家族5人が生活するのは苦しかったので

義父は出勤前や、帰宅後、畑に出かけ農業もしていたそうだ。

そんな父が病気になったとき、早く元気になってもらう為に

母は1個の半熟卵を作ってくれたそうだ。

貴重な貴重な1個の半熟卵。

父は、まず卵を割ると、卵の殻や小さな皿に、ほんの一口ずつの卵を入れ

3人のじじ兄姉に与え、その後自分が残りを食べていたそうだ。

そんな時、母はいつも卵を食べることを辞退していたそうだ。

家族5人でたった1個の卵・・・・・



当時は、どの家庭も似たり寄ったりだったと思う。

だから、悲しいとか、惨めとか、貧乏などと思ったことは無かった。

物は少なくても、家族が大きな愛で絆で結ばれていた時代だったんだね。



貴重な卵を産んでくれる鶏だけど、卵を産まなくなったとき、

今度は、肉となって家族のタンパク源になった。

鶏汁、とても美味しかったけど、それは鶏の命と引き替えのお汁だったんだね。

豚が殺される現場は見たことは無いけれど、

鶏が殺されるのをチラッと見たことがある。

鶏が可愛そうで、人間ってなんて恐ろしいんだろうと思ったけど

母が作る鶏汁は「美味しい、美味しい」と食べていたばば。

本当に「生き物の命をいただいて」ばば達は生かされているんだね。



今や、物余りの時代。

たくさんのまだ食べられる食物が「賞味期限切れ」「消費期限切れ」ということで

大量に廃棄されているらしい。

子供時代の事を考えれば、余りに時代が豊かになりすぎて

色々な事の有り難みを軽視しているのでは?と反省することもある。



ばばも、身近な日々の生活から、もう少し見直していく必要があるかも知れないなぁ。

徳之島じじとばばのブログ  主管理者 ibuchanじじ&ばば

水担ぎ

by ばばの日記

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10月3日(水)晴れ

出先で必ず出る会話。

「今度の風強かったね〜。何か被害無かった?」



2日前、撮影から戻って来たじじが言った。

「今日、撮影で歩いたコースの彼方此方にトタンがあった」と。

ばばは、一瞬何も考えず「不法投棄?」と言ったら

「いや、今度の台風で民家とか倉庫とか

畑の小屋から飛ばされて来たんだろう」と。

今回、多くの民家の屋根が吹き飛ばされたと聞く。

トタンやトタン用の釘も、お店には無いとも聞いた。



ばばの実家のすぐ前にある畑にも

トタンが何枚も飛ばされてきていた。

又、我が家から見える倉庫も屋根が全部吹き飛ばされている。

我が家の車庫は、15号が襲来した時に

トタンがたくさん吹き剥がされたが、

リフォームをして下さっている大工さん達が

全部倉庫内に運び込んでくれた。

今回の台風で又飛ぶのではと心配したが、風が強くなる前に

何処の何方かが、土嚢を置いて重し代わりにして下さっていて

今回の被害はゼロ。

土嚢を老いてくれたのは、大工さん達では無いという。

どなたがして下さったのか?お礼を言おうにも相手が分からずそのままである。



台風でトタンや河原が吹き飛ばされたかと思うと

大きな木も根こそぎ倒れているという。

ばばの実家集落にある周囲1メートル以上もあり

樹齢7,80年の松の大木も根こそぎ倒されているそうだ。



又、車も吹き飛ばされたり、クルクル吹き回されたりしていたらしい。

台風だけで無く竜巻も彼方此方で発生していたのでは?と言う人もいる。



今回、最も被害を受けたのはやはり農家の方だろうなぁ。。。。

ばばがいつも行くお店で会うおじさんも

「今年はサトウキビもタンカンも生姜もダメだ」と嘆いていた。

これから収穫を迎えるこれらの農作物が壊滅的な被害を受けたら・・・・・

農家の方々にかける言葉も無い。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

前述した、実家集落の松の大木と言えば

忘れようにも忘れられない思い出がたくさんある。



ばばが子供の頃、まだ水道が無く

飲料水を初めお風呂の水も泉から汲んで来ていた。

汲んで来る・・・・と簡単に書いたが、それはそれは重労働であった。

バケツ2個を天秤棒のような棒で担いで水を運ぶのだ。

10回、20回・・・いやそれ以上、バケツ2個いっぱいの水を担いで

家と泉の間を往復するのだ。

ばばの家から泉までは直線距離にすれば、ほんの100メートルくらいだったか?

しかし、泉へ行くには急な坂を下らなければならなかった。

急な坂道への下り口に大きな松の木があった。

季節によっては松ぼっくりをたくさん落としてくれた。

しかし、とてもとてもイヤな季節があった。

それは・・・松の木に付く毛虫が大量発生する季節。

大量発生した毛虫は木からぶら下がるだけでなく

道路にも何百匹と落ちてモゾモゾ動いていた。

裸足だったばば達はいかに毛虫を除けて歩くかが一番の課題だった。

行きは、まぁ良いとして帰りは水を満たしたバケツが重くて

毛虫を除けてピョンピョン跳ぶわけにも行かず・・・水をこぼしたら

更に泉に通う回数が増えるから・・・・



春夏秋冬、1日も水汲みをサボるわけにはいかず

すぐ上の姉と、ばばの誰かが必ず水汲みをしなければならなかった。

姉は今でも言う。

「小さい頃、毎日毎日水担ぎをしていたから背が伸びなかったかも」って。



雨の少ない年はね、泉の水が涸れてしまうの。

だから、各自家から柄杓を持って行って、泉から少しずつ湧き出る水が

溜まるのを待って、柄杓で汲んでバケツに入れていたんだけど

バケツ2個に水を満たすのに相当の時間を要していた。

この泉のみ水がすっかり涸れると、集落内の更に遠い泉まで行き

その泉も水が無い時は、隣集落の泉まで通っていた。



農作業も一通りはやったばばだけど、

家の手伝いで一番きつかったのは水汲みだなぁ・・・・・

「水汲み」と言わずズバリ「水担ぎ」って言っていたけどね。



小学校何年生の時だったか?

水道が通った時の嬉しかった事!

すぐに各家庭に水道が引かれたわけでは無かったけれど

急な坂道を上り下りしなくて良いし、家のすぐ近所の水道の所まで行けば

水が汲めるし・・・・今は蛇口をひねれば水が出る時代だけど

台風とかで断水すると、改めて水のありがたさを痛感するし

また、幼かった頃の辛かった「水担ぎ」の日々を思い出して切なくなるばばだ。

徳之島じじとばばのブログ  主管理者 ibuchanじじ&ばば

牛・豚

by ばばの日記

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10月2日(火)晴れ

ばばが子供の頃、家で牛・豚・鶏を飼っていた。

牛は使役用。

今のように車や耕耘機やトラクターがあった時代では無く

重い荷物を運ぶのは牛だった。

稲や黒糖、お米や材木、イ草等々。

我が家の動力の半分以上、イヤ8割以上は牛が頑張っていた。

暑い日も寒い日も、朝から晩まで良く頑張ってくれていたなぁ。

稲刈りの時期には、脱穀した籾を田んぼから家まで運んだりもしたけど

そんな時、ばばも荷車の隅っこにチョコンと乗っけてもらっていた。

朝早く田んぼに行き、荷車の上から夕月を見ながら帰ることもあった。



牛が子牛を生むと、「馬喰」と言われるおじさん達が

子牛を買いに来た。

ある夜、二人連れの「馬喰」おじさんが来て、家に上がり込んで

商談をしていたが、フイと外へ出て行った。

父が「外で子牛の値段を相談しているんだよ」と言った。

しばらくしてふたりのおじさんは又家に上がってきたが

売り手に聞こえないところで値段を相談して、又上がってくると言うのが

商人らしいなぁ・・・と幼いながら思ったことが、今でも忘れられない。

あの時、子牛を売ったかどうか?値段はどの位だったかは

サッパリ覚えていない。

ばばは「馬喰(ばくろう)」と言う音だけ聞いて

「他人を上手く言いくるめて、安く買いたたく人」だと思っていた。

今の時代も「馬喰」という言葉が使われ、又こう言う商売人がいるのだろうか?



豚も、2,3頭飼っていた。

豚も1頭だけ自家用に残し、あとは大きく育てて売って、

やはり現金収入の糧にしていた。

ばばが子供の頃は、お正月になると各家庭で豚を一頭つぶしていた。

12月も月末になると、親戚のお兄さんが数名我が家に来て

豚を豚小屋から引っ張り出し、牛小屋に立てかけた梯子に

逆さにくくりつけていた。

その後の行動をばばは直接見たことは無いが、

きっと誰かが豚の喉を包丁で刺してとどめを刺していた

その後、豚を浜に担いで行っていたような・・・・・

毛を焼いてむしって、その後、それはプロ並みに捌いていた。

捌くのは家でしていたなぁ。



上手く捌いた肉は、部位別に分けて

すぐ食べる物、保存食用に分けていた。

保存する分はきつく塩をして、大きな瓶で保存し

1年中使っていた。

脂身のところは、炒って油を取り、油(ラード)は煮物や揚げ物に使い

油を取った残りは「油かす」と言って、煮物やお汁に入れていた。

豚の血さえ、捨てずに食べていた。

豚の血を使ったお汁は「血ー汁(チージル)」と言って

大鍋で野菜や豆腐などと一緒に豚の血を炊くと

血が塊のようになって美味しかった。

今ならとても食べられないと思うが。

又、母は豚の血を使ってお餅も作っていた。

茶色っぽくて、今のふくれ菓子のような感じだったが

味は甘くはなかった。

今にして思えば、小さい頃は色んなものを食べていたんだなぁと思う。



それにしても12月末になると、各家庭から

命を絶たれる前の豚の鳴き声が響いていた。

感受性が鈍かったのか?それとも豚が直接殺される場面は見ていなかったせいか

あまり「可愛そう」とは思わなかったが、今なら耳を覆うだろうな。



いつ頃からだったろう?

各家庭で豚を飼わなくなったのは。。。。。

やはり、衛生的な面などから保健所かどこかから指導があったんだろうね。

各家庭で豚を飼えなくなって、畑などに小屋を作って豚を飼っている人はいたよ。

ばばの家のすぐ前のキビ畑の隅っこにも豚小屋があった。

この豚小屋の主は、ばばの家からだいぶ離れた所に住んでいたけどね。



そして、そして、じじはこの豚小屋の近くで

仕事から帰るばばを待っていて・・・・・

ばばの家に来たのが初めてだよね。

だから、ずぅっと後まで「豚を見た後だったから

ばばが美人に見えた」って言うんだよ〜。

ばばは、豚小屋の豚さん達に感謝しなければいけなかったのかな?



まさか、じじと結婚するなんて夢の夢にも思わなかったけど。。。。。



あと、ばばの家では鶏も飼っていたけど、「鶏編」は又・・・・・

徳之島じじとばばのブログ  主管理者 ibuchanじじ&ばば

夜の訪問者、他

by ばばの日記

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10月1日(月)晴れ

お昼過ぎ、1階の倉庫へ降りてビックリ!

床が、水浸しぃ〜〜〜〜

天井からの雨漏り?

それとも?と、キョロキョロ眺め回す。



入り口付近の床だけが水浸しと言うことは・・・・

台風時、西からの激しい風雨がドアの隙間から吹き込んだのだろう。

その証拠に、奥の方や上の方は全然濡れていなくて

床だけが水浸し。

じじにも見てもらわなくちゃ・・・・・

じじに報告したら、じじもすぐにすぐに下りて行って確認。

じじの結論!

上の道路から流れてきた雨水が倉庫の隙間から流れ込んだのだろう。

ガムテープで目張りしておくべきだったなぁ・・・って。

でも、想定外の事だったからね。

次からは・・・(って、もう、無い事を祈るけど)

倉庫の台風対策も考えなくちゃいけないね。



さて、夕べ想定外?の出来事があったよ。

夕ご飯を食べていると、玄関先で男の人の声がする。

若い青年の声のようだ。

夜だし、男の人の声だから、じじに出てもらった。

台風15号の時、防犯ライトは落下してしまったから

玄関のライトを付けないと、立っている人の顔も見分けられない。



それとなぁ〜〜く、漏れ来る会話を聞いていたが

じじが、ばばに向かって「トイレの詰まりを直す用具があっただろう?」と。

えぇ、あるにはありますけど、ここ7,8年使ったことも無いんですけど・・・・



来訪者は、今回の台風でトイレが詰まったのだろう。

それで、近所のばばの家に借りに来たらしい。

でも・・・・他にもお隣さんはあるのに、どうして我が家?

・・と思いながらも、しまっておいて場所を探したら出てきた。

7,80センチの柄があって、

その先には、ゴムで出来たほぼ半球の部品が付いている。

長〜〜いこと使っていないので、内側は白っぽくなっていたが

それを持って玄関に行った。



「助かります.ありがとうございます!」と青年は階段を下り、駆け戻って行った。

数分後、「ありがとうございました」と、青年は用具を返しに来た。

わざわざお礼の品まで持って。

ばばも、ちょうどパパイヤの佃煮を作ったばかりだったので

ちょっとお裾分け。

帰って行く青年に「直りましたか?」と聞くと

「ハイ」とのこと。



ごくごく御近所に住みながら、全然交流も無く

顔さえ知らなかったけれど・・・・・ご近所さんと言葉を交わしたよ。



それにしても、どうして青年は我が家に「詰まり」を直す器具があると思ったのだろう?

じじ曰く「あの家には、きっと色んな物があるはずって思ったんじゃないの?」ってさ。



ばばは、いざという時のこととか考えて、

普段から色々な物を揃えてはあるけれど

まさか、もう10年くらい前に買って、ほんの数回しか使ったことの無い

「詰まり直し」が、他人様の役に立つなんて・・・・・



ばばは、思ったよ。

いざという時、助けてくれるのは、お隣ご近所だと思うから

積極的にご近所の方とは会話をしたりして

普段からお付き合いしておいた方が良いなぁ・・・・って。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

今日の3時、じじ&ばばのティータイムメニューは?

ホットコーヒー・スイートポテト・作りたてのふくれ菓子

・・・で、じじの分をお皿に入れたまでは良かったけれど

じじが「あれっ?僕の分は?」と言った。

あらっ、まぁ!ばばったらじじの分のスイートポテトを自分が食べてる〜。

自分の分は、ちゃんと箱に入っているのに。。。。。

「僕、思わず泣きそうになったよ・・・」と、じじ。

ごめんね、ごめんねぇ〜〜



久しぶりにココアふくれ菓子を作ったけど、

もう少し膨らんで欲しかったなぁ。

卵と牛乳の分量を減らしたせいかなぁ?

又、近日中に違う味でチャレンジしよう〜〜〜っと。

徳之島じじとばばのブログ  主管理者 ibuchanじじ&ばば

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