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11/20(土) 22:24
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名前

by ばばの日記

徳之島じじとばばのブログ


11月20日(土)晴後曇

「自分の名前好きですか?」と聞かれたら

「はい」「いいえ」と答える人の割合はどのくらいになるんだろう?

16日に町内中学生による「弁論・英語暗唱大会」があった。

ばばも知っている子が出るので、聴きに行った。

まず、弁論大会があったが、ばばの知っている子の演題は「私の名前」。

発表者中、ただ一人,原稿を一度も見ることなく堂々と発表した。

その子の名前は「和希子ちゃん」。

ばばは、「和希ちゃん」といつも呼んでいるが・・・・・

和希ちゃんは、自分の名前が大っ嫌いだったそうだ。

ワキの子」と呼ばれたり、お笑い芸人「ワッキー」と同じく

「ワッキー」とも呼ばれ、さらには親友からも

「あなたの名前って変ね」というようなことを言われ、

家に帰って「もうこんな名前イヤだ!」と泣きながら両親に訴えたそうだ。

お母さんが和希ちゃんを抱きしめながら

「我が子に、どうしても平和の(和)という字を入れたくて色々考え

和希子と名付けた」ということ、両親の思い等を話してあげたそうだ。

「和希(かずき)」「和音(かずね)」という名前なども考えていたのだそうだ。(ばばが勝手に当てた漢字でいいのかなぁ?)

両親の話をじっくり聞いてからは、自分の名前が好きになったと言う和希ちゃん。

和希ちゃんの弁論を聴きながら、うちの三女も小学校低学年の頃、

「自分の名前が嫌いだから名前を変えたい」と言い出したことがあった。

音楽の時間に、「きらきらぼし」を習った時、

歌詞に自分の名前が出てきて、その時、男子などがチラチラ自分の方を見るのがイヤだからと。

また、男の子にも同じ名前の子がいて、病院などで「H君」と呼ばれることも実際あった。

三女の名前はばばが決めたんだけど・・・・・

でも、信念を持っていたから、絶対良い名前だとばばは信じていたんだけどね。

ばばも大学生までも自分の名前が嫌いだったことを思い出した。

ばばの姉妹のなかで、ばばだけが、どうしてか平仮名だった。

「子」だけは漢字だったけどね。

漢字なら意味も大体分かるけれど、平仮名に意味なんてあるのか?

漢字名の友達が羨ましかった。

だから、自分の名前の漢字を習った時、ばばは勝手に答案用紙等に漢字で名前を書いた。

そして、大学に進んでからは勝手にロシア語を自分の名前に当てはめ

「ペンネーム」のように気取って使っていた。

ばばは、自分の名前の意味など両親に聞いたことはなく、両親も話してくれたこともなかった。

クラスメートでも、平仮名の名前の子って、たくさんはいなくて

漢字名の友達がとても羨ましかったばば。。。。

ばばの名前には一体、両親のどんな思いが込められているのだろう・・・・・・

現在は、今は自分の名前が好きでも嫌いでもない。

もともと、人間の名前は、それぞれの人間を識別するためにつけられたんだろうな。

ばばより大部先輩の方なんて「メンチャ」「ナベ」「カマ」なんて名前もざらだったもの。

我が家の三女にも、それぞれに両親の思いを込めて名前をつけたけれど・・・・・

親の思いを分かってくれるかなぁ。。。。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

大勢の観客の前で、臆することなく堂々とした発表をしてくれた和希ちゃん。

素晴らしい発表だったよ。

ばばは、聴きながら我が子や、自分の名前、又今は亡き両親のことなどが

次々と浮かんできて、涙が出てきてしまった。

和希ちゃんの発表が終わった時、手のひらが真っ赤になるほど拍手したよ。



自分の名前の由来を聞いて、ますますご両親が大好きになっただろうな、和希ちゃん。

徳之島じじとばばのブログ  主管理者 ibuchanじじ&ばば

魔の時間2

by ばばの日記

徳之島じじとばばのブログ


11月19日(金)曇後雨

三女がいつも通り出勤はしたものの、「体調が悪くて病院へ行き、

肺炎と言われた」との連絡を受けたけど、

その後、連絡が取れないと次女から電話があって

その後、次女は家で寝てるかも知れないから急いで帰ってみるね〜と

メールが届いてから約1時間、

(こんなに時計の進み方が遅いと感じたことは最近無い)と思いながら

じじとばばはひたすら連絡を待っていた。

そして、途中しびれを切らし、じじが「次女に電話してごらん」とばばに言う。

でも、「次女が帰宅してから、連絡をくれると言ったんだから

8時までは待ってみよう」とばば。

ばばだって、内心ヤキモキし、心臓は破裂寸前にバックンバックンしてたけどね・・・・

8時10分前、待ち焦がれた次女からの電話。

「お父さん、お母さん心配かけて、ごめんなさい、

ヒカチ(三女の愛称)は、今会社にいて、仕事をしているんだって」・・・と。

ナァヌゥ〜〜〜〜〜〜〜〜〜会社にいると〜〜〜?仕事していると〜〜〜?

その途端、全身の力が抜けたじじ&ばば。

三女と連絡が取れた次女の話によると、

「病院で軽い肺炎ですね」と言われた三女は、薬をもらい

その後、会社へ戻ったら「来週月曜日までは休みなさい」と言われ

仕事の整理と、引き継ぎなどしていたらしい。

あぁ〜〜〜〜心配して損しちゃった〜〜〜〜。

ほどなく三女本人からも、次女から聞いたような連絡があり

「ンン〜〜〜モゥ〜〜〜〜」と牛にでもなったような声で応対したじじとばば。

その後は「もう、ヤイト(お灸)160個くらい焼くからね〜」と。

「お父さんはヤイトをバッグに詰めて飛ぶ準備していたんだからね〜。

バッグの隅っこにお母さんも詰めてもらって一緒に飛ぶ予定だったけど・・」なんて

軽口をたくさん言った。

(島ではばば達が小さい頃悪いことをすると、すぐにヤイトするよと親から言われたものだ)

娘は、食欲はないものの、走り出せそうなくらい元気はあるというので、ひとまず安心。

それにしても離れて住む家族の体調が悪いと聞くと

本当に胸が潰れ、自分が消え入りそうなくらい心配するもんですね。

三女は、つい12日ほど前に帰省し、元気に戻って行ったのに、

島で風邪でも引いていたのかねぇ〜と心配したり

肺炎だって!!!!インターネットで色々調べてみよう!と焦ったり

今は笑って話したり、書いたりできるけど・・・・・昨夜のあの時間帯は、

じじとばばにとって本当に1分が1時間にも感じられる「魔の時間」だった。

電話で、じじとばばの心配ぶりを聞いて三女は

「お母さん、絶対ブログに書かないでよ」と言いながら

「元気になって会社に行ったら、お父さんとお母さんがしたこと話そうっと」と言う。

そっちが、そっちなら、こっちだって!

あなたがばらす前に、こちらから発信しますよぅ〜〜だ!

参ったか!

徳之島じじとばばのブログ  主管理者 ibuchanじじ&ばば

魔の時間

by ばばの日記

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11月18日(木)晴

「絶対書かないでね〜」って言われたけれど、

これが書かずにいられるもんですか〜。



6時過ぎ、次女から電話があった。

三女から次女に電話があり「ちょっと体調悪くて病院へ行ったら肺炎って言われた」って。

でもその後次女と連絡が付かない。

会社近くの病院に入院したかも知れないけれど、

何処の病院かも分からない・・・」

お姉ちゃん(長女)に電話しても、

お姉ちゃんも電話に出ない」って。

と次女の、心配で消え入りそうな声。

(長女にも三女から連絡があり、長女は病院へ走ったのでは?)

一瞬にして色々なことが頭を駆けめぐった。

次女は、「もしかして、三女が家に帰って寝ているかも知れないから急いで家に帰る」

というメールを最後になかなか次に連絡が来ない。

食事を始めようとしていたじじも、魚の南蛮漬けを作ろうと張り切っていたばばも

一気に気分が奈落の底へ落ち込んでしまった。

じじは、何とか食事を始めようとはしたものの

刺身を一口食べては大きなため息をつく。

ばばは、じじが「ツマの青菜がないんだけど・・」と言っても

「今は作る気がしない」と食卓に俯してしまった。

気分が落ち込み、重い空気のまま、時間だけが刻々と過ぎる。

「じじ〜。明日東京へ飛んでよ〜。

ばばは両親の介護でで島を離れられないけど・・・」

と言いつつ内心、ばばの一緒に飛ぶ気満々。

試しに長女へ電話してみる。

長女は電話に出た!

しかし・・・・・長女もあまり元気がない。

声が変だし・・・。体調が悪く伏していたらしい。

長女へも次女から第一報の電話があったけど

その後、電話はないという。

重苦しい時間が刻々と過ぎ、

じじは「もう一回次女に電話したら・・」と言うけれど

家に帰って、三女が帰っていなくて彼方此方連絡しているのかも知れない。

ひたすら次女からの連絡を待つ。

ばばは「もしかしたら、三女は診察を受けた後、

帰宅途中拉致でもされて連絡ができないのでは?」

と、物騒なことまで言い出し、じじが「それだけはないよ」と断言。

※続きは明日

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親思う・・・・

by ばばの日記

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10月10日(日)晴



「10月10日は晴天率が高い」と言うことで

「東京オリンピック」の開会式も10月10日にしたと

つい先日ラジオで聞いた。

今日の徳之島は、秋晴れの晴天。

町民体育大会も盛大に行われただろう・・・が、

じじとばばは、もう何十年と参加してない。

応援にさえ行かなくなった。

「10月10日は」ばば家族にとって、特別の日。

「じじ母」の誕生日なの。

結婚以来、去年までは、ばばが島にいさえすれば、

何らかの形で「母の誕生祝い」をしていた。

娘達が小さい頃は、両親を夕食に招待し、娘達が「おめでとうメッセージ」を読んだり

エレクトーンを演奏したり、ささやかなプレゼントを贈ったりして両親の誕生日を祝っていた。

我が家の娘達が巣立ち、両親と、じじ&ばばだけになっても

やはり、両親の誕生日は食事に招待していた。

しかし、ここ4,5年はそれもできなくなってしまった。

年を重ねるにつれ、両親の足腰も弱くなり我が家への階段を上るのがきつくなってきた。

父は、数年前からアルツハイマーを患い、グループホームにお世話になることに・・・

家には母ひとり残され、寂しそうだったが、母の誕生日には食事を作って届けることにした。

今年からは、母の誕生祝いも家ではできなくなってしまった。

6月11日。

たまたまじじが旅行へ発った日、母の体に異変が・・・・・・

救急車で病院へ行き、翌日夜になって軽い脳梗塞と診断された。

約2ヶ月半の闘病生活の末、介護付き老人ホームへ入居した。

現在は車椅子で移動し、食事も自分でできるまでに回復している。

父90歳、母87歳。

ばばは、自分の両親と暮らした年月より、じじの両親と暮らした年月の方が遙かに長くなった。

その間、両親には言葉では言い表せないほどお世話になり可愛がってもらった。

じじと出会わせてくれたのも父だった。

ばばが38年間、転職と信じた仕事を続けることができたのも、両親のおかげだった。



結婚と同時に仕事を辞める女性が多かった時代、

父は「ばばちゃん、これからの時代は女性も働く時代になるよ。

母ちゃんと、父ちゃんもできるだけ協力するから

ばばちゃんが、辛い、キツイ、もう駄目だと思う時はいつでも仕事は辞めて良いから

仕事続けてみたら」と言ってくれた。

当時、父は中学校に勤めていた。

結婚してすぐ、じじとばばは加計呂麻で勤務することになった。

1年後、長女が誕生し、ばばは仕事も続けたかったが長女の面倒を見てくれる人が無く

途方に暮れていた。

その時、父から電話があり「自分たちが責任もって育てるからハナ(長女)は

島へ連れておいで」って・・・・

迷って迷って、泣いて泣いて・・・結果仕事を取ったばば。

長女を手放したのが、生後三ヶ月から。

そして次女が誕生したが、ばばが「破傷風」になったり、また面倒見てくれる人が無くて

次女も1歳6ヶ月から父と母が育ててくれた。

両親ともすでに50歳後半だったが、良く乳飲み子二人を育ててくれたものだと

感謝すると共に吃驚する。

うちの娘達ばかりでなく、徳之島で仕事をしていたじじ妹夫婦の子も2,3人一緒に面倒を見ていた。

ほとんどが一才違いの孫4,5人をよく世話できたものだ。

ひきつけを起こしたり、高熱を出したり、おできができたり・・・・

お風呂に入れたり、散髪したり、食事をさせたり・・・・・

両親が協力したからこそできたこと。

両親とも、孫達を我が子のように、いや、それ以上に可愛がってくれた。

一番多い時は、7人の孫の世話をしていたことになる。

母が食事の準備をする時は父が孫を散歩に連れて行ったり、

父が次々と孫を風呂に入れ、母が着替えをさせたり・・・

父は教職の傍ら、朝夕は農業をしながら孫の世話をしてくれた。

だから、我が家の娘達も「じいちゃん・ばあちゃん大好き!」で育った。



最近、特にばばは、じじに「今の生活があるのは誰のおかげ?」と良く問う。

数年前まで、じじは、娘達に「今、あなた達がこんな生活できるのも、お母さん(ばば)が

お父さん(じじ)と同じように働いてくれたからだよ」とよく言っていたけれど、

そのばばを支えてくれたのが、じじとじじ両親だった。

だから、ばばが「今の生活があるのは・・・?」と問うのは

改めて両親への感謝の気持ちを持ちたいと、じじにもわざと答えさせたいのだ。

じじ両親がいなければ、いても「孫育て」に協力してくれていなければ

ばばは働けなかっただろうし、今のような平穏な生活はできなかっただろうと、いつも思う。



だから、ばばにとっては「じじ両親は神様」なのだ。

その両親が、今は病院と、施設にお世話になっている。

父は、会話もできず、呼びかけに反応することも少ないけれど

ばばが「お父さん!」と呼びかけると10回に一回ほど返事をしてくれる。

返事があろうが、無かろうがこれからも、、ばばは毎日病院のベッドの横で

「お父さん」と呼び、話しかけようと思う。

母は、まだ意識はハッキリしているし会話もできるので

できるだけ毎日母を訪ね、母の話を聞いてあげたいと思う。



今日は、母と会いに行ったら、もう昼食が始まっていて、

あまり会話はできなかった。

耳元で「お母さん、誕生日おめでとう」と言うと

「ありがとう。ありがとう。ごめんね。何も手伝いできなくて」と答えた母。

施設に入ってさえも、ばばの手伝いを何かしたいと思っているんだね。

「親思う心に勝る親心」と言う言葉が、ばばの胸を去来したよ。






帰り際、ばばは母の部屋へ行き、

ベッドに母の好きなゼリーと、ミカンと、お煎餅を小さなカゴに入れて置いた。

「お母さん、お誕生日おめでとう。今まで私たちに尽くしてくれたから

これからは、私たちに、うんと甘えてね。じじ・ばば」という手紙を添えてね・・・・



家に帰ると、娘から「ばあちゃん誕生日おめでとう」で始まるファックスが届いた。

明日、届けよう・・・・

母は、また「ありがとう、ありがとう」って言ううだうな・・・

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じじの東京土産

by ばばの日記

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10月5日(火)晴



所用で上京していたじじが 昨日10日ぶりに帰って来た。







在京中は自分で刺身を買い、ばばがいつもするように野菜類も買って千切りにし



食事後の洗い片づけまでしている。



帰って来て、夕食後「東京でのことを思えば何のこれしき!」と言いながら



自分が食べたあとの食器を片づけた。



(可愛い子には旅をさせよ)と昔から言うけれど



(憎たらしい怠け者じじは東京に行かせろ)って諺でも作ろうかな?






さて、上京中、じじが一番足繁く通う場所。



それは秋葉原。



行けば行ったで様々なパソコン部品や、



ばばから見たら細々雑多で訳の分からないものを買って来る。



買って来ては、せっせと自分のパソコンを修理したりバージョンアップしたり



生き生きしているじじ。



ばばから見たら、何が何だか分からない線や板や箱?だけど、



じじにとっては二つとない「楽しいオモチャ」。



変身させ、改良し、めでたし、めでたし。







そんなじじに、島に帰る数日前からは意図的に



「そろそろばばの分もお土産など買ってよ〜〜」と言っていた。



「何が欲しいの?」と聞かれて



「例えば、パソコンとか、テレビとか・・・・・」と言っていたのだが・・・・・









昨日帰って来たじじ、ばばに何をお土産に買ってきたと思う????



どこから拾ったのか分からないけれど



ドングリ????それとも、シイの実???13個を茶封筒に入れて持ってきた。







何とまぁ〜〜〜。呆れて?いえいえ嬉しさのあまり、ばばはついポロリ。。。



何がって?涙が〜〜よ、もちろん!



それにしても、広い東京の何処で拾ってきたんでしょうね〜〜。



少なくとも、拾う時はばばの顔を思い出しながら拾ったんでしょうね〜〜。





ばばが仕事をしていた時は、東京からドングリをドッサリ拾ってきてもらったことがあった。



島で大量のドングリを何処へ行けば拾えるか分からないので電話でお願いしたの。



東京では、公園などにいくらでも落ちている所があるのよね。。。。



ドングリついでに紅葉した木の葉も拾ってきてもらって



生活科の時間に、子ども達を喜ばせてあげることが、できたんだったよな・・・



何はともあれ、「あ〜りがたや〜、ありがたや〜」。





ばばには超サプライズ???ドングリ13個のお土産だったけど



自分は携帯電話も買い換えてきたんだよね〜。



じじは、もう6,7年も同じ携帯使っていたからね。



新品の携帯で、夕食時、娘に電話をした。



じじが話した後、「ばばに代わるね〜」と電話を渡されたので



ばばも色々話していると、横から「じじの新品電話であまり話さないで、



自分の携帯で話せばいいのに・・・」だって。



普段携帯などに執着しないじじが、新品電話をとても大事に思っているらしい。



ハイハイ、わかりました!



もう、じじの携帯は使いませんからね〜。



ばばだって、自分の携帯が使いやすいんだもん!



色だって、ばばの携帯が可愛いもんね〜〜。





じじは、ばばより10ヶ月遅れで携帯新品にしたから



確かにデザインとか一寸格好いいかも知れないけど



機械音痴のばばにとって、使い慣れた自分の携帯が一番!ですよ〜〜〜〜〜。

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天国の兄さんへ

by ばばの日記

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9月19日(日)



今日は大好きだった兄の、命日だ。



まさか49歳の若さで兄が天国に召されるなんて・・・



忘れもしない、昭和63年9月16日。



ばばは、道徳の授業をしていた。



たまたま「たった一つの命」「かけがえのない命の尊さ」について



子ども達に話していた時電話を取り次がれた。



普通は授業中に電話を取り次がれることなんて無い。



異様な胸騒ぎを憶え電話のある部屋へ走った。



電話の内容に、ばばは失神しそうだった。



鹿児島にいる兄が出勤前に倒れ救急車で運ばれたという。



すぐに、休暇届を出し姉と一緒に飛行機で鹿児島へ飛んだ。



病院へ直行したが、すでに兄の意識はなく気管切開をされていた。



それから3日後、みんなの願いむなしく兄は49歳で天国へ旅立った。






ばばと10歳違いだった兄。



女姉3人の中に男の子は兄一人。



我が家の「希望の星」だった兄。



努力家で、温厚で、いつでも家族のことを考えてくれていた。





貧しかった時代、兄は家族の期待を背負って大学へ進み念願の高校国語教師になった。



兄がK高校へ赴任した年、ばばは高校受験だったが



両親の「K高校へ行って、兄さんの炊事の世話をしながら高校へ行けば親も安心する。」



という一言で志望校を受験2ヶ月前に変更、予想だにしなかったK高校生になったばば。



中学三年生まで、ズボラで、ぐうたらで、



(いかにして家の手伝いをサボろうか)ということばかり考えていたばばが



入学直後から兄の身の回りの世話をし、食事の準備をし・・・・・



まるで高校生兼一主婦として奮闘の日々が始まった。



少しでも安く買い物をするために隣の集落まで歩いて往復した。



当時、初めてカッパえびせんが発売されたような気がする・・・



お風呂も隣の集落の銭湯まで行っていた。



そんな生活の中で、学校へ行けば、ばばは兄のことを「N先生」と呼ばなければならなかった。



極力兄と接近しないように校内を歩いた。



たまに廊下などですれ違うと兄はにこっと笑って、すぐに顔をそらして通り過ぎた。



兄は現代国語と古典を担当していたが、ばばの学年には古典を教えていた。



ある日、兄がばばに言った。



「古典のテストで、お前が悪い点数をとると、兄さんは恥ずかしい。



かと言って、満点とると問題を教えたと友達から思われるかもしれない。



だから、なるべく良い点数をとって、その点数をキープしなさい。」と。



ばばは国語は大好きで。将来中学校の国語教師になりたいと思っていたので



なるべく兄の期待に添えるように頑張った。



兄妹で、同じ学校で、兄は教師、妹は学生・・・・何とも妙な気持ちになることもあった。



ただ、「兄に迷惑をかけるような言動はいっさいしないぞ」と固く心に誓っていた。



k高校は島内唯一の高校で学生のほとんどが島内の中学校から来ていた。



ばば一人が徳之島からの入学だった。



先生の妹だから・・・・余所からたった一人で来ているから・・・・・でもなかっただろうが、



同級生・先輩・先生方からも、とても良くしてもらった。



入学後しばらくは、夕方になると徳之島の両親が恋しくていつも泣いていた。



兄はいつも帰るのが遅かったので、夕食の準備をし、一人で宿題をしながら兄を待った。



そんな時、センチメンタルになって泣きべそかいていた・・・・



高校生になっても、幼かったんだね、ばばって。







そんなばばが何時も思うことがあった。



(兄さんはいつ寝ているんだろうか??)と。



二部屋しかない町営住宅で住んでいたが、ふすまで仕切られた兄の部屋は



夜、ばばが何時に目を覚ましてもいつでも明かりが点いていて



机に見かっている兄の後ろ姿が見えた。







ばばは青春まっただ中。



食べれば食べるだけ体は風船のように丸々太っていった。反対に兄は・・・・・・



兄の同僚の先生方に「おい、○子、自分だけ美味しいの食べて



お兄さんに美味しい食事作ってるか?」と良くからかわれた。



今から思うと、兄に本当に申し訳なかったと思う。



栄養的な知識もなく、ただ自分が好きな物を作っていたような気がする。



そんな妹が作った弁当を3年間食べ続けた兄。



文句一つ言われたことはないけれど、もう少し料理がうまくできていたら・・・・



「美味しいっ!」って舌鼓うってもらえる料理が作れていたら・・・・・



ごめんね・・・・兄さん。





今思うと、切なくも楽しい高校3年間だった。





大学受験を控えた時、ばばは中学校の国語教師になるために学べる公立の短大と4年制大学を選んだ。



担任の先生も勧めてくれた。



しかし、兄は「お前の今の実力では希望している国公立はダメだ。」と・・・・・



兄の言うことはいつでも正しいと信じていたばばは、日本全国の短大、4年制大から



1,中学校の国語免許がもらえる。



2,学費が安い。



この二つの条件に当てはまる学校を選び出した。



4年生大は県外、短大は県内で各一校ずつ選んだ。



4年制大学に行くか、短大に行くかで随分迷ったが、



当時就職率ほぼ100%だった短大に自分で決めた。



そして、高校3年間学費を出してくれた兄と、



「先生ほど良い仕事はない」と呪文のように言い聞かされた両親への恩返しのためにも



一生懸命勉強して大学に合格し、教師になるんだと強い気持ちで受験し、合格した。





ばばは、最初の第一希望だった公立大学に未練はあったけれど



母が教えてくれ、ずっと座右の銘の一つとしてきた「鶏口なるも牛後なるなかれ」で



鶏口になるべく頑張るのも、又一つの道かな?と思い公立大学は諦めた。





選択は間違っていなかったと思う。



ばばは、その後自分の夢を実現させ、両親の元へ帰った。



そして、ある程度親孝行もできたと思っている。





兄は・・・ばばが高校を卒業し、2年後に結婚した。



そして奄美市への高校へ転勤。



その後、鹿児島へ転勤となり二つ高校で勤め、4月から県立図書館勤務となった。



地方奉仕課という部署で、これからはたくさんのおじいちゃんや、



おばあちゃんの為にも頑張るとばばに話した。



貧しい生活の中から兄を大学まで行かせてくれた島の両親へ思いを胸に、



地方のたくさんの方々のために勤めようと張り切っていた矢先・・・・・



新しい職場に移って半年しか経っていなかった9月。



当時は9月15日が「敬老の日」だったが、



倒れる前日には故郷の敬老の方々へ、兄は祝電を打ってあった。



敬老の日の翌日倒れ、3日後に帰らぬ人となった兄。



「これからが、親への恩返しの時」と語っていた兄。



徳之島の高校へ異動し、両親を喜ばせたかったであろう兄。



49歳って、若すぎる。



まだまだ、やりたかったことは、たくさん、たくさんあったはず。



無念でたまらなかっただろね、兄さん。





兄が無くなった時、19歳だった一人娘は、結婚し今では中学生と小学生の



女の子ふたりのお母さんになっている。



兄さんは、一人娘の結婚式の晴れ姿も可愛い孫も見ることができなかった。



無念だっただろうね。







今日は、兄にとって孫Mちゃんの運動会。



奇しくも、兄の命日。



義姉は先日から、孫の応援に行っている。



兄は目を細めてMちゃんの頑張りを天国から応援していることだろう。





兄さんが旅立ってから、23年。



兄さんの家族も、ばばの家族も、みんな頑張っているよ〜〜〜。







今朝、両親の仏壇の水を替えながら、ばばは祈ったよ。



お兄さん、お父さんやお母さんと一緒に、



これからも、ずぅっとずっと、天国からみんなを見守っていてね・・・って。

徳之島じじとばばのブログ  主管理者 ibuchanじじ&ばば

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